生野区とは・・・


〜我が町、生野〜

生野区は昭和18年4月1日、東成区を母体として誕生。これらの地域は、昔から米麦をはじめ菜種、綿花などを栽培する純朴な農村地帯として広がり、明治22年の町村制度施行当時においては、その戸数わずか930戸、人口4920人を数える静かな農村でした。しかし、その後の市街地かはめざましく、明治28年の城東線(環状線の前身)の開通、桃谷駅の新設、大阪市周辺の鉄道の施設などにより、これらの地域の近代化が一層進みました。

一方大正時代に入ると、この地域での主な産業は農村から加工業に移り、鶴橋の鏡、生野のマッチや田島の眼鏡レンズ、小路の碁石、櫛などが特産品とされるようになりました。さらに第一次世界大戦後には、中小工場や住宅の建設が大幅に進み、鉄工、メリヤス、刷子、セルロイド、防水布なども生産され、人口も大正14年の大阪市編成時には、既に85000余人と大きく増加。しかしながら第二次世界大戦による痛手は生野区においても例外ではなく、各産業の受けた損失も著しいものがありました。しかしいち早く再建が図られ、金属加工業やゴム、ビニール製品などの製造が盛んとなりました。

また昭和30年の周辺6ヶ町村の大阪市編入により、生野区の面積は5.61kuから8.24kuと広がり、あわせて行政機能の充実も図られました。

生野区の風景